盆休、五連休もおわればあっというまである。
と、云っても正確にはまだ終わってなく、盆休最後の昼下がりは豚肉を食っている。 肩肉か ”もも” のスライスで、この部位はある人に言わせると、
「・・・豚肉でも、最低のところや」
で、あるらしい。 なるほどいつ行っても100グラム¥80ほどで売っているからよく買うが、今日はその最低にかるく塩コショウし粉末化されたニンニクをふりかけ炒めた。
どのような定見でもって豚肉のこの部位のことを 「最低」 と表現したのか、そのあたりのことをこのひとからは訊かなかったが、いま食ってるかぎり、わたしからすればこの酒肴しかないとおもえるほど最高に旨い部位である。 まあ、余談。
余談、と云ってもこの記事ぜんぶが余談のようなものだが、とにかく盆休は初日に石上神宮に詣でたきり、その後は拙庵で飲み暮らしてしまった。 途中、愚母から電話があったりしたが、そのことくらいでほぼ世間から杜絶していたといっていい。
天気もいけなかった。 ぶあつい雲がいまいましく日輪を遮り、不意の陽射しにこころがおどるときもあったがそれは刹那でしかなく、常時容赦なくつよい雨が奇襲的に降った。
「はて、これでは」
とおもい、読書に耽けた。
いずれも数回は読んだことがあるのだが、『最後の伊賀者』、『言い触らし団右衛門』 と読んでいって昨晩からは 『尻啖え孫六』 を読んでいる。 ちょっとおどろくが、読み出すとみなあらためておもしろく、籠るりゆうとなったこの不安定な天気に感謝してる自分が居てた。
前記のふたつは短編集でいずれもおもしろいが、読みかけの 「尻啖え」 は、やはり今朝もどこで閉じていいかわからず難儀するほどおもしろい。 おもしろいが、ただ当方における読書の難点は呑みながら読めないことである。 酒間の読書を何度もこころみたが、次に読むときほとんど覚えておらず、空白の時間を過ごしているのにすぎず、栞の意味も ”位置” も、あってなきものとなってしまうのである。
「ああ、司馬老人はほんとうにほんものだなあ」
逆算したつもりがなくとも、司馬遼太郎の作品を読み出した頃から彼に関する書籍以外は別段もう要らないとおもっていた。 冥界の持って行って読めるのならはなしは別だが、わたしの生存中は司馬老の遺したものを書見するだけでどうやら時間がなくなり、且つ充分自足してしまうとしかおもえないのである。
如上の司馬遼太郎の三作は、わたしの生前もしくは生年に各出版社から発行されたものである。