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歩いている足元を見ると、ひどく影がくろい。 この炎天のもとをこの日なんなく歩けたのは、作業用の麦わら帽と、やはり真空断熱の水筒を持参したことがおおきいだろう。 空が広く翠がよく、とてもきぶんのいい散歩だった。 ともかく、さきほどのこみちからおおきな道路に出た。 「清滝街道」、もしくは 「釈迦堂清滝道」 という名称らしい。 そばにあったバス停の名前は 「大覚寺道」 であり、文字だけ眺めていれば歩きたくなるような気になる。 というわけでこの釈迦堂清滝道を天龍寺や大堰川の方へ向かって歩いてみたが、いまのわたしの具眼ではふつうの無愛想な道路にすぎなかった。 一方通行のみちを一丁ほども歩くと、威容とも云える楼門が峙っている。 清涼寺の 「仁王門」 である。 この寺は光源氏のモデルと言われる源融の山荘 「栖霞観」 跡でもある。 源融の死後、阿弥陀堂が建立され、当初は 「棲霞寺」 と呼ばれていた。 この寺には東大寺の僧奝然(ちょうねん)が将来した特異な容姿をもつ三国伝来の釈迦如来立像があったりして、嵯峨を訪れるなら一度は立ち寄るべき寺だろう。 そして境内にある茶店で 「あぶり餅」 など食えばよろしい。 筆者は数年前参詣し、そのときあぶり餅も食ったがうまかった。 それと、仁王門のすぐそばには豆腐の 「森嘉」 もある。 銭に余裕のあるかたはここの豆腐も食えばいい。 わたしはこの著名すぎる店の豆腐を食ったことはないが、お店の前を通りながらこれを肴に日本酒でも呑めばさぞ旨いだろうなとおもった。 仁王門を見上げていたときも実際はそんなことをかんがえていたわけで、取りも直さず今回は清涼寺の境内にすら入らずただまえのみちを通り過ぎただけである。 「・・・・・。 練塀をわざわざ穿ちましたか」 清凉寺さんは他力門だからかしら、というのはまだよかったが、不敬にもなまぐさいことをすこし想像したりしてしまった。 これはいけないと思い、ちょうどつきあたりの寺門に日蔭ができていることを幸い、麦わら帽を剥いですこしあたまを冷やすことにした。 ”たからばこ”、と言うからには禅宗ならではのなにか含蓄があるのかしらとおもいさっそく説明板を読んでみると、宝篋院とは中興開山の禅僧・黙庵に帰依した室町幕府二代将軍・足利義詮の諡号であるらしい。 このほかこの寺の境内には河内四條畷で戦死した小楠公の五輪塔があるらしく、アンパンを食いながらふむふむとそれらを読んでいると中からぞろぞろと人が出てきた。 仰向けにひっくりかえっているときもぞろぞろと人が出てきて、そのときさすがに、 「このこつじきっ、我が寺の門前でなにしてやがる」 と、ねころがっているわたしはホウキかなにかで叩かれるんじゃあないかとおもい咄嗟にリュックから観光パンフレットを取り出し、 「いかい、嵯峨はええ寺の多いところだのう。 河内よりのぼってきた甲斐がありますなあ・・・」 と、独語をつぶやいた。 要するに機先を制したつもりである。 嵐山・嵯峨は古くから桜花・紅葉の景勝地であり、取りも直さず京都を代表する観光地である。 その土地のものなら坊主と雖も観光客には悪しゅうすまい。 臨機にへたな三文芝居をうってみたがこの寺は臨済宗である。 禅宗のお坊さんなら寺の前で平然とねっころがっているわたしの無様をいましめるか呵呵大笑されるか、そのいずれかであろうとおもった。 ところがかれらから苦情は出ず、一瞥しただけですたすたとどこかへ行ってしまった。 僧徒でなく檀家衆だったのだろう。 このとき、寺のまえのみちを柄杓でもって打ち水したくなる風情をかんじた。 また、芭蕉のように旅する俳人や旅僧に自分をなぞらえてみたりして、手甲脚絆があればいいなあ、などともおもった。 門前で一礼し、ふたたび歩くことにした。 御旅所とは 「頓宮」 などともいい、遷宮や祭礼のさい、御神体を奉載した神輿が渡御するときの奉安所のことである。 御旅所はおもに氏子の区域に設けられるが、たしか石清水八幡宮などは一乃鳥居をくぐってすぐのところに在ったように憶えている。 そういった例も、まれながらもあるのである。 「ほう、こりゃお大尽さまがたのお子たちが集われる学び舎にちがいない」 建物の入り口に悠然と黒塗りの車が横付けされ黄色い帽子をかぶったわらべがひょこひょことなかから出てくる、という光景もありえるふんいきである。 わたしは首をのばして門のまえから敷地内の植栽や結構などを見、小学校も景勝地に建てればこんな具合になるものかとあきれるおもいだったが、ふと、このままここに突っ立っていたらたれかに通報されるのではあるまいか、という不安をおぼえた。 よくかんがえたら、半パン作務衣の不審者が白昼堂々小学校のなかを覗き込んでいるというその様子は、客観すればあっというまに変質者のできあがりである。 昨今は微細なことでも個人の趣意を無視して吊るし上げたりする世の中だから110番されてもおかしくはない。 「なるほど、こりゃいかん」 水筒の茶を喫してから麦わら帽をととのえ、この場を去った。 「親仁、はんはん。 抹茶バニラだ」 「へい」 親仁は破顔し、てぎわよくソフトクリームをひねり始めた。 さて、写真は竹林のみち入り口だが、このとき未の刻ごろである。 述懐を大雑把に述べると、自然には神仏が満ち満ちている。 わたしは凡夫・俗人である。 このわたしが自然やその造型美と接するとき、自儘な意見だが自分以外の諸人はその場に不要であるとする。 感覚器が、人の気配が自然を上回ったと判断したとき、其処はすでに自然ではなく平素過ごしている猥雑な日常とほぼかわらないような気がする。 むろん訪客に罪はなく、景勝地などに参観・観光したいのはたれだって同じだろう。 わたしのような偏執漢はやはりゆくべき時間帯というものを選ぶのが最善でありそれしか方法がないだろう。 雑踏や人いきれが気にならないという大らかさを持つひとたちを羨望してしまう。 わたしはちょっとがんばって早起きするほかない。 春の桜を愛でにゆくにしても、山頂・山麓など植わっている場所によって咲く程度が違うのは、これはとうぜんの道理である。 つまり同じものであって同じものではない。 自然は、静観すべき対象であるとわたしはおもっている。 むろん 「竹林の小径」 にも同じことが云えるだろう。 感覚的世界の背後にある超感覚的な、神仏的なものを感じれるのは、我われの日常には無く、静観する自然のなかでしかそれは体験できないのではないだろうか。 唐突だが、華厳経には 「一切唯心造」 という素晴らしい世界観が在るが、わたしはそれを知識として持っているにすぎないからつい如上のようなことを吐露してしまう。 とほうもない雄大さを蔵する華厳のおしえをわたしという俗人は微塵も理解しておらず、方便としてまだ使えていない証左だ。 長辻通沿いの土産店にもいくつか入ったりして、渡月橋前の交叉点を東へ折れた。 写真は造路町、大堰川左岸から岩田山の方角である。 この附近からの眺望はそうでもないが、渡月橋より西、左岸から眺める景色は法輪寺およびその多宝塔が風景の力点となっていて佳いことに気づく。 渡月橋を通る車両が煩いが、時間帯を選べば感嘆すべき佳景だろうし、前古からさほどかわらぬ景色を今にとどめているような気がした。 この佳景が四季を選べばなおのことたのしめるということは言を俟たない。 四季ときどきの美しさをはなつ嵐山も小倉山も帝都の西の郊外にあり、彼の地は中古の時代からのべつ幕なしな絶景を、各時代のひとびとの瞳に映してきた。 「・・・・・。 にしても、あそこのふたりはなにを語り合っているのだろう、で、あの家族連れはなんのことであんなに笑い合ってるのかなあ」 山河の風景から目を離すとそのようなひとびとに出会う。 ・・・・・ 昔のことは知らない。 だが嵯峨嵐山という地は、そこにやってくるひとびとのロマンチシズムをいまだに集積しつづけているようだった。
by utaushimoyama
| 2014-08-31 11:31
| 嵯峨の夏こみち..2014
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