今年盆休の天気予報を調べると、ずっとくもりマークである。
北河内の天気予報は今日もくもりマークだったが、今朝ゴミを出すと道路が濡れており、午前中などときおりつよい雨が拙宅の濡れ縁や出窓をたたきつけた。
わたしは今回、たまさか旅の予定を入れず自室でのんびりしているが、いま、カブにまたがり旅をしておる数寄者どもはきっとこのめまぐるしく変わる天気の具合に、楽しみつつも難渋しているにちがいない。 山間部ならなおのことであろう。
「くもり予報なのに、あたりまえみたいに雨が降ってきた」
吹き込む雨をきらい、ブログ記事を書いていたわたしはのそりと立って出窓の窓を閉めた。
この日も雨さえ降らなければ昨日のように社寺参詣か、或いはリトルカブのオイル交換に出かけていたことだろう。 そのことをさっそく止めたのは盛夏に着る合羽の不快感と、汗などでどうせ濡れるのにそれを着脱するというばかばかしさを当方は感ずるからである。 旅やツーリングなどでも同じことだが、もし道連れの徒が居たならこうも直截には決断しにくい。
「今年の盆休は天気だけを云うなら、ここ数年で最悪だなあ」
みな予想つかずで走っているにちがいない。 目的地に着いたら着いたで野宿者はテントなどその宿営場所にも考慮せねばならず、なかなか骨折りな旅となっているはずである。 しかしながらその悪条件が自身を活性化させ、いまとても良い時間を過ごしているのかもしれない。 今週は銀マットやら荷物やらを山盛りにして幹線道路をゆくバイクや自転車を風物詩がごとく見かけた。 いまさらなことだが、
「やはり迷わず、吾もゆくべきであったか」
と、おもったりもする。
こうとなれば先刻の彼らの残像を粉末にし、それを目の細かい網でもってたまさか目の前にあったショートケーキにふりかけ食うしかない。
そうすれば、ちょっとしたくやしさをおもいつつ外出をひかえたわたしにとってたしょうの気休めとなり、云うなれば多少、盆休の法楽ごととなろう。