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写真のように二見興玉神社、夫婦岩へ向かう神域の参道は海際をゆく。 歩くたび、山で隠れていた朝日がすこしずつあたりに反射しだした。 息を飲むしかなく、遠景のあれこそ、夫婦岩である。 天にある雲が渦巻いていて、まさに興玉神石を目指し神がいまにも降臨してきそうな荘厳たる景色だった。 どうも神使らしい。 海水だけどカエルのくせに大丈夫なのだろうか。 すこし調べてみると二見興玉神社のかえるは「二見蛙」、と呼ばれ、昔から縁起物としてひとびとに愛されてきたらしい。 1、蛙は吸い込む習性があり”幸福”を招き入れるという信仰 2、遠くの地に移しても必ず元の地に”かえる”ことから、旅人の安全、「無事かえる」という信仰 3、身につければ災難を免れる、「身代りかえる」という信仰 「・・・ははあ」 伊勢神宮は鶏、出雲大社は蛇、春日大社は鹿、石清水八幡宮は鳩、伏見稲荷は狐、宇治神社は兎、熊野大社は烏、日吉大社は猿、松尾大社は亀、そのほかいのししねずみ狛犬などなどが神の使いでおわすようだが、こうなってくると生き物すべて神の使いと思っていいのではないか。 いずれにしても主祭神にゆかりのある動物たちなのだろう。 とにかく夫婦岩付近には二見蛙がたくさにいたのだが、まあ歩みを進める。 境内の由緒説明によると、二見興玉神社は天平年間に行基という僧が「興玉社」、として創建したらしい。 祭神は猿田彦大神をお祀りしていたが、明治期に宇賀御魂大神を合祀しあわせて二柱、そのときから「二見興玉神社」と称するようになったとある。 ところで、たしかなことではないが、わたしの見たところ社殿も授与所も鉄筋コンクリート造りのように思えた。 まこと、そのほうがいいと思った。 こんな海のほとりにあるお社など、暴風雨や台風などに襲われたらひとたまりもない。木造ならすぐばらばらになりそうだし、海水における侵蝕、腐蝕も起こり得るだろう。 天災はある意味で神威的現象なのかもしれないが、我々人間としては出来うる限りの準備をしておかねばならない。 鎮まる神々を守り、そこに奉職するひとたちの生命も守らなければならない。 そういったことで、この二見興玉神社社殿の外観は様子よく見えた。 ところで、二見浦は、近世あたりからだと思うのだが、穢れを祓う霊場、伊勢参宮における禊場であるということは現代においてあまり知られていないのではないだろうか。 事実わたしは知らなくて、そのことを知って夫婦岩付近など眺めてみるとまたちがった感興があった。 往古の参宮者たちは、この浜で俗世のケガレを落とし伊勢神宮に足を運んだのである。 そしておどろいたことに、実はこの二見浦が日本最初の「海水浴場」、ということである。 二見浦が海水浴場、と述べたが正式にはこの夫婦岩付近の浜のことを指し、このあたりの浜のことを当時は「立石浜」といい、呼び方も海水浴場ではなく「海水浴潮場」、と称した。 もっと述べればこんにちの海水浴のような娯楽、バカンス的なものではなく、多分に医療が目的であったという。 岩石が露出した岩場は波浪が多く皮膚を摩擦するので良い、と考えられていたらしい。 昔の人(と言っても明治人だが)は夫婦岩付近に多くの杭を立て、そこに縄を縛り付けて自らも縄でしばり直接海水に浸った。 これを「冷浴」と呼び、海水を温めたものに入浴することを「温浴」とし、諸病に効くと信じられていたのである。 浴潮場開設は明治15年のことであり、このことで日本で初めて、国指定による海水浴場が三重県に誕生した。 開設してみるとそれを知った浴客が激増し、二年後の明治17年には海水浴場を現在ある「賓日館」まえあたりの砂浜に移設せざるを得なくなった。 その「賓日館」は伊勢神宮に参拝される賓客の休憩、宿泊施設として明治20年に建設されるのだが、こうやって二見浦は避暑、療養の地として発展していくことになるのである。 ちなみ発案など上述のことはすべて長与専斎というひとの尽力によるものである。 専斎は肥前大村出身のひとで、江戸末期、今の大阪市中央区北浜3丁目に当時第一等の蘭学塾と言われた緒方洪庵が主宰する「適塾」の塾生であった。 そこには福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、そしてのち天才的軍略家と言われた長州の大村益次郎なども学んでいた。 専斎は洪庵に師事したのち長崎へ遊学、オランダ海軍軍医であるポンペから多くのことを学び、1868年「長崎医学校」の長となる。 専斎の経歴を書き出したらキリがないのでこれくらいにするが、とにかく当時最高の医療を学んだひとであるということは充分推してはかれるであろう。 専斎がこの二見浦に着手しだしたときにはすでに「内務省衛生局長」、という役職に就いており、そういうひとが、とてもおもしろいと思ったのだが、次のようなことを述べていた。 夫婦岩参道に、『二見浦浴潮場石表銘』、という碑がある。 一部抜粋してみたい。 ・・・ 「皇大神が俗界に降りて来られて、太陽の光が夜明けを告げる。この二見浦の海潮に浸れば、神の恩恵を得た波が打ち寄せ、医療効果、治癒効果がある。 わが国の民、伊勢国の民はなんと幸せなことか」 と詠って帰京する。 ・・・ 明治18年4月、長与専斎の弁書である。 こんにちの医療、現代人としての常識的視点から見れば、当時最高水準の医学を学んでいるはずの専斎が多分に非科学的な発言を堂々としているようにも思える。 であるが、これはむろん堂々としていて当然なのである。 なぜなら日本という国は、はるか上代の時代から常に「祭政一致」、ということで運営されてきたからだ。 神様のまえでは尊貴卑賤などなく、みんなが神々に感謝し多いに畏怖する精神が常態としてあった昔の日本人は、とても健康だったように思える。 これが戦後、GHQによって祭政一致が廃止され(政教分離)、同時に信教の自由が日本国憲法にもりこまれるわけだが、わたしはこのあたりに、今の日本の現状の素地があると思っている。 ここでは余談になるので多くは述べないが、おそろしく狂った現代における精神的日本の惨状の起点は、太平洋戦争でアメリカに負けて、GHQ(連合国総司令部)が日本を占領、管理しはじめた瞬間からであると、わたしは文献資料、また、動画等で語っておられる戦争を経験され戦後を生き抜いてこられたかたたちの発言などを拝見するたび、そうにちがいないと思ってしまった。 個人的なことを述べるが、わたしはアメリカのブラックミュージックが好きで学生時代からよく聴いていたし、現在ではジャズバーなど様々なところでスタンダードジャズを歌い、みなさんに喜んでいただいている身である。 なので上述のことは、進駐軍とともにやってきたアメリカが誇る素晴らしい音楽、「ジャズ」という音楽を聴いたり歌ったりしているわたしにとって、アメリカという国をそう認識することはとても悲しいことだった。 ただ今はなんとか、 「文化は文化、政治は政治、アメリカという国に住んでいるひとりひとりのひとたち、政治がらみ、私利私欲でウゴイテイルひとたち」 これらは、違うのだ、分けていいはずだ、と確信はないがそうやって自身をなぐさめている。 ・・・ わたしは、今の日本は生命的にも精神的にも 「 存亡的緊張 」 にあると考えている。 今のわたしたちは、日本という国に生まれて先祖代々さんざんこの国のすべて、天地の恩恵を享受し今平和に生かされているくせに、自分がこの国の国民であるという認識を、いったいどれほどのひとが持っているのだろう。 筆者は、戦後間もない焼け野原になっていた大阪や東京のことなど、写真でしか知らない。 むろん当時のひとたちがどういう心境でその焼け野原のなかを未来に向かって進んでいったのかということもよくわからない。ただそんな苦労を父や母、媼翁にさせてしまったのかと、現代に生きているわたしには悔やんでも悔やみきれず、どんな理由であれ戦争は絶対、二度と起こしてはいけないと念じている。 昭和の陸軍参謀本部のことや太平洋戦争のことは、わたしごとき若輩が軽率に述べたり書けることではない。 ただ日本人の長い歴史のなかで、その時の事情や機微といったものもむろんあったろうが、結果的歴史的事実を知ったうえで、この戦争ほど愚かしく世界中に恥を晒し、そしてものすごい数の人命を奪った戦争もないと後世のわたしは思うほかない。 そして日本は降伏し、アメリカ軍が進駐してきて SCAP(初代最高司令官)、マッカーサーが占領政策を推進し、GHQ が絶大な権力でもって我が国を戦後改革していくわけだが、そのときに日本人が日本人であることを忘れさせるような、アメリカにおけるナショナリズム、モノ優先の価値観の種子のようなものを、日本人のこころに植えつけられてしまったのではないかと思う。 周知のとおり、日本はその後高度経済成長を見せ、日本人自殺者はいまだに三万人を下回らない。 わたしは昭和40年代の生れだが、わたしが今以て自分で調べた日本文化の素晴らしさ、日本的精神美に感動するようなことは、当時通っていた小中高どの学校でも教えてもらえなかった。 私の通っていた学校はしきりと「日の丸」を否定しナマの国旗なども見たことがなく、なによりあんなにこころに染み入る旋律と歌詞を併せ持つ国歌は、他国にはないとわたしは自負しているのだが、我が国の国歌、「君が代」も学校で歌わせてもらったことが一度もなく、キミガヨと一言でも言えば大問題になりそうな、なにかタブーな雰囲気が校舎内ならび校庭中にあったように記憶している。 と言うか当時は国旗国歌など存在しない、といった雰囲気だったと言ったほうが正しいかもしれない。 (センセイナンダカラ、センセイノイウコトハスベテタダシイ) と疑うこともなくそう思っていたし、漠然とそのことに疑問を持つこともなかった。 そして、「なぜそうなのですか?」といった質問も、少年であったわたしはしなかった。 なぜなら、先生の言うことだったからだ。 いま、幼稚園や小学校からやり直せるとすれば、世界史と日本史をじっくり時間をかけて、「こうだからああなった、こういう結果こうなった」など事細かく教育してもらいたい。 そして時代時代に興る自国の文化や精神面をみっちり知り、神代古代からつづくその歴史街道を降り歩んでみて、現終着点である現代の自分に会って、さて、どう思いますかと話しを聞いてみたい。 むろん傾斜した意見や認識だけでなく、右的な考えも左的な考えも感情移入させずに分け隔てなく、すべて巨細に教えてもらって、その上で生徒たる自分の意見が述べれるとしたら、そういった教育環境だったら或いは違う人生を歩んでいたかもしれないというひとがヤマほどいるのではないだろうか。 上述のようなことを思うのは、じっくり史実と向き合うことで今在る自分という存在、たくさんいる自己のなかには日本国の国民であるという自己存在理由を確立することができるし、一個人として世界という巨大な存在に対しても堂々とその関係性を明確に持つことが出来るだろう。 そうすればしぜんと胸を張って、そしてそのなかで日本固有の精神美である(とわたしは思っている)「慎み」や、まず相手を思いやるといった高い精神性でもって世界各国や相対する様々なひとたちと接することができるのではないか。 自分本来のことも知らないのに他人のこと、そして自国のことも知らないのに他国のひとたちのことなど、どうやって理解しどんな態度で接し話せばいいのかわかるはずもない。この時点で例えば身近には留学、そして世界外交レベルでも他国に遅れをとることは必至なのに、どうしてこの国のオエライサンガタはぼんやりしていたのだろう。 先に述べた歴史の勉強法はじっくり時間をかけて、と言ったが別にやり方はなんだっていい。要するに日本人が日本語を苦もなく話せるのと同じような感覚、そういった「素地的知識」として体に染み込めばいいのである。 なにかの出来事に対し教養もなにもないところから思考を出発させアタフタするよりも、その素地的知識からさまざまな思考を出発させるとすれば、おおげさでなくあらゆる面で国益にもなると思うし、自殺などという短絡的な行為はまず激減するだろう。 上述したさきの大戦のことや戦後のこと、これからの教育というものなどについてわたしにはあまり関係ない、もうすんだことで、いわゆる対岸の火事として認識している読者もなかにはいるだろう。 それはおそらく、「太平洋戦争」、「戦後」などなんとなく単語として知っているだけで、つまり詳しくは知らないひとたちなのだとおもう。 そういうひとは空から雨は降ってきてもまさか自分のアタマの上に、弾や爆弾が降ってくるとは到底おもわない。 たしかに戦後の昭和から平成にかけて日本の空から爆弾が降ってきたことはないが、それにはむろん理由がある。 あらゆる衝突を避けるためさまざまな場面で幾度重なる外交に尽力しているひとたちや、この国のために命を賭して守ってくれている同じ日本国民のかたたちがいてくださるから、わたしはのんきにリトルカブで旅行に出かけたり、市民は安心して買い物に出かけたりできる。 この国のために誠のこころで、本当の意味でこの日本を命懸けで守ろうと尽力しているひとたちがいてるのだから、そのかたたちの存在を常に思い、そして平和な日々とは得難いものなのだと感謝のきもちをもつことは同じ国民として当然だと思える。 すくなくとも昔の日本人、泰平の世であった江戸期の庶民は、その平和に対し感謝のきもちを常にもち多くのひとたちが神仏に手を合わせていたはずなのである。 「だがそういうひとたちも「給料」をもらってやってるわけだから、やって当然だ」 と思ったひとがもしいてるなら、その精神は充分蝕まれている。 なにに蝕まれ、奪われ失ってしまったのかはこの稿ですでに述べた。 子々孫々の繁栄をおもうこともなく今さえよければいい、自分さえよければいいといった、つまり実在した過去と現在、それらによって創られる未来というものを無視した、自己保全とその場の欲求解消にしか思考能力のいかない自己中心とした ”ばけもの” が、心の中に棲んでいる。 棲みついてしまったと言ったほうがいいかもしれない。 この日本という国には、こんにちの平和やゆたかな環境と繁栄を願い、自らの命や生活などを犠牲にして奉公してくれたたくさんの尊い日本人が間違いなく存在し、現代においても無私の精神でこの国に尽力しているかたたちがいてるという事実を、わたしたちは念頭において日々生活するべきだとおもっている。 わたしは他人に強要するのもされるのも吐き気がするほど大嫌いだが、このことをもし、こころの片隅にでも留めておいてくれたら、わたしはうれしい。 個人ひとりひとりがこころにそういう想いをもっている、もっと言えば神々がいつもこの国を、わたしたちを見守ってくださっている、そのことを有り難くおもうきもちは、何年かまえに来日されたブータン国国王が日本の子供達の前でおっしゃっていた言葉、 「みんなひとりひとりの心の中には、龍がいるんだよ」 ということになると、わたしは思う。 想像してもらいたい。 自分の心のなかに龍神が鎮まっているという、その心強さを。 そして龍神はきっとそのひとを良い方向に導くため、ときには悲しませたり笑わせたり、とてつもない感動や試練を与えてくださるとおもう。 そうやって自身が磨かれていくことはとても幸せなことだと、わたしは本当におもうのである。 この国をこんにちまで支えてくれたひとたちが絶対にいる、そのひとたちの思いやたましいが天地にはある。 ・・・ いつものことながら思っていることをつい辷るように書いてきたが、話柄が冒頭からのとは、ずいぶんと逸れてしまった。 読まれた読書子にすればナンダナニゴトダ、と思ったにちがいない。申し訳なかった。 次回は夫婦岩のまえにもう一度立ち、そこから伊勢参宮の旅を再開する。
by utaushimoyama
| 2013-09-09 21:21
| 二度目の伊勢参宮カブ一人旅2013
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