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先日、ふた月に一度ほどの予定で入っているライブがあり、場所は大阪難波である。
ライブへの交通手段もカブを利用しており、難波で演奏のときはもっぱら「難波パークス」駐輪場に停める。 そこから店まで、戎橋商店街を北へゆくのだが、近年、その商店街におおきなブックオフができた。 はやめに家を出て、演奏前に文庫本を十冊ばかり購入した。 『YAKATA de Voce』 という、主にボサノヴァの音楽を流しているバーでライブもおこなっている。 店は、そのビルの螺旋階段をのぼりきった四階にあり店内は長細くうっすら暗い。 ほぼカウンター席でお粗末なテーブル席もあるが、そこはおもに演奏者の待機場所となってしまっているようだ。 印象として、店内の棚や壁一面にはCDやら音楽機器やら、なにかが入っているらしいダンボール、古いポスターなどで雑然としている。 そういった光景を味わいとしているのかもしれないが、 (きっとマスターはモノを、) 捨てられないタイプなんだ、などといらぬ詮索をしつつも、しかしながら店の雰囲気はいい。 余談としてこのビルの一階から四階まで、テナントはすべてジャズバーなど音楽関連店である。 ただ生演奏をしているのはこのヤカタだけで、しかもほぼ毎日、いろんなジャンルの演奏者がやってきては、こつこつとライブをしているらしい。 この日はわたしを含め四人、カルテットである。 といっても、ヴォーカルがふたりなのですこし特殊な編成となる。 ドラムレスのギター、ベースであった。 メインヴォーカルは、Sさんである。 ここ数年ヤカタを通じて知り合った。 彼女をひとことで形容するなら可愛らしい、といったかんじで、そういえばとしなど訊いたこともないがいくつなのだろう。 聴いてるとなんだか蠱惑的でとてもオトナをかんじたりもするが、ある瞬間は小さな女の子がそのオトナに化けて歌っているのではないかといった錯覚に陥ったりして、どうも彼女が得意とするさまざまな黒魔術にいつもはまってしまう。 この日、おどろいたのはこのSさんがフランス留学の経験があり、むろん仏会話に堪能であるという、語学的教養の持ち主だったことである。 「えっ ほんとうでございますか」 ぽんっ、と煙を上げわたしは黒魔術師に操られるいっぴきのこうもりと化っていた。 この直覚的変貌は居並ぶお客さんも演奏者も気付かなかったはずである。 むろんヴァンパイアではないが彼女は、渡欧しフランス語学という知識を身につけた。 どういった動機でかは訊いてないのではあるが、その時間や努力と労力、またお金といったものを投資しインテリジェンスを修得された。持ち帰ったのは語学だけでなく、帰国のさいにフランスにおけるさまざまな感性の花粉といったものが体に付着していただろう。彼女のなかで培養された花粉たちは、日本という国できっと美しい花を咲かすにちがいない。 とにかく、想像もしていないこと、まったく出来ないことのそれらを内蔵していることに、そういったひとたちにわたしはおどろいたり感心したりしてしまう。 知らなかったとはいえ、まことそのような英知の持ち主といままで演奏していたとは、わたしのような逸民たる草莽の臣がご一緒しててもいいのだろうか。すごいひとは身近にもいてるものである。 そういったことでこの日は彼女の頭上をぱたぱたと旋回してみたり、気まずくなるとピアノの裏側にひそんでみたりして、まあ個人的にはたのしかった。 さて。 いつのまにかカウンターには、お客さんたちがグラスをかたむけ氷の行方などをたのしんでいた。 よい情景である。 飲食店やこういったバーなどでの演奏のとき、ほとんどのお客さんは演奏中お酒や会話などを楽しむ。 お酒でその日の疲れや緊張などをときほぐし、良質の音楽(わたしにあっては未満です)を付帯的なといった気分で来店されているのだろう。 そのときお店の可視的な雰囲気も良く、さらには会話がはずむといったひとたちがいつもいてるなら、その場所はそのひとにとって優等のリフレッシュ空間であるわけで、ついついかようほかないし、この行動は明日も出会ったひとたちに優しくしてしまうといった作用があるのではないか。 以下は、唐突ながら「ライブ」についてすこし述懐してみたい。 ふだんわたしは演奏者側の機会が多いが、観客として演奏を聴きに行ったときの、印象とか記憶をすこし書きあらわしてみる。 一側面としてライブとは、観賞すると耳からはもとよりさまざまに体のなかに入ってくるが、と同時にその居合わせた空間にも吸い込まれていって、消えて無くなっていく音符たちの儚さといったものがリアルに感じれる。 音楽は空間に対し、瞬間的死の連続性を性質としてもっている。 ただ人間の意識などといったものを受動する機会があると、虚空に対しては屁のように無意味だったものがおおきく変化しさまざまな意味を成し出す。 つまり、ライブにおける音楽はそういった触媒でひとに対しても空間にも、なにか化合するといった大きな変化をおこす。 かさねるがそれは意識、もしくはそこに居合わせたひとたちすべての姿勢といったものが触媒となる。 アカデミックな読者が当ブログを訪問されたら、コンテクストや文章の整合度などといったものの稚拙さに呆れさっそく画面右上のぺけボタンを押してしまうだろう。 しかしながらここは門外漢たる音楽書生のにわか文章として大目に見てもらいたい。 ただ上記も概念的にはその輪廓が浮き出て、閲覧されている諸賢にはぼんやりながら伝わるのではないかとおもっている。 さてライブとは、CDではない。 そうじをしながら、なにか用事をしながらのつもりで触れると、その瞬間にライブでなくなってしまう。 ここですこし注釈を入れるが、ここでの「ライブ」という単語は、この日行われた「このライブ」、ではなく、また世界中でいまも演奏されている巨細なライブ、さらには過去にあったライブ、網羅的なライブを指しているのではない。 演奏側と観客側として過去経験したわたし自身のライブの感覚、その体験ひとつひとつの総体をこの稿でライブとさだめ、ライブとはこうではないか、といった個人的なことを述べてみたいのである。 まこと言語には限界があるが、どうも自分で書いてる文章を客観的に読めなくて多少不安になる。 不安定ながらも筆をすすめてみたい。 良質のライブである、またそうであったという数ある定義のなかのひとつに、観客、演奏といった一見形態のちがうこれら各形態がこの空間を能動的に統一しようとする、つまり全体にするといった意識、認識を相互にもちあわせているときに良質のライブが誕生する、といったことがまず挙げられるとわたしは考える。ただこれは一定義にすぎない。 すこしオーバーだがライブを国家と仮定すれば、演奏者と観客はその国家内における他民族、といえるであろう。国民国家は多民族が国民、市民という名のもとその国を運営する。 ライブはある到達点、到達地に共に向かう共同作業であり、でありながらそのなかにモラルとして互いに干渉せず互いの区劃には立ち入らない、そしてそれらが自然体であり一体となって実にひとつのまとまりができている、こういったこと、ほかにもいくつかあるが、ともかくこれではじめて良質なライブの因子がひとつできあがる。 互いにお願いしたりされてるようでは、そのライブは熟すまえの果実を捥いでしまったにひとしい。 小国でも実によいシステムを構築し国民の充実度が高い国もあるし、大国でも国内で互いに乱れ、きっと政治も腐敗していると思える国もある。どちらに旅行に行くかは言うまでもない。 かたちとしてはライブはその空間の共同体だとわたしはおもっているのだが、自身がおもっている到達点とはやはり違ってて当然なわけで、しかしそのあたりで同じ人間として知らなかった性質、傾向、そして魅力といったものが副次的に発見できたりする。 しかしこう言い出すと「良質」、といったことに抵触しだすわけで、このことをさらに深めていきたいが、力量不足のいまのわたしでは系統的な結論に向かわせる文章力はまだなく、いま書いてもただなまぐさい記述になるだけだろう。 わたしはライブでピアノを聴けば、 (ああ、あんなふうに弾けたら毎日楽しいだろうなあ) とか、 歌のひとのおもいがけないフレーズに、 (あ、かっこいい) など、 平静を装いながらもじつはとろけたり椅子から飛び上がりそうになったりしている。 しかしながら自身も表現したい、だが客観的に他者のライブも聴きたい。 究竟、どちらがわにも行き来したいという結論だった。 音楽は羽虫のいのちより儚い。そのことを知っている人間は音楽をきわめて美しいものとおもうだろうし、慈悲心と美貌を兼備し生を受けてしまった、なのに咲いたとたんに散ってゆくたおやかな白桃の花のような、ともおもったりする。 ただ物語も美しいその花も瞬間にだけわたしのまえにふと存在し、つぎにまぶたを上げたときにはもういない。 歌い手は音楽という徒花と心中するに似ている。相愛の真実を互いに確かめあいながら、歌うこととはそれを示すことだ。 そしてその音楽で現実にはない、空想世界のなかでだれかになにかを伝えることができる。 あのときのときめきを今一度映し出し悲しませたことはあやまり、未来においては君の幸福しか願わない。ライブ空間にいてた全てのひとが、感じようとおもえば得れることだとおもっている。 音楽にはそのときの場面、景色を劇的にかえてしまう側面ももっている。だからあのときの情景に音楽をのせてあげればいい。 ・・・ この日ヤカタには、とあるジャズバーのマスターやトランペットをされている常連さんたちが聴きに来てくださった。 この店に来られるひとたちはみな不思議なほど知的でやさしくおだやかで、粗野なひとは知らない。 ヤカタの所在地は大阪難波でありこの畿内一猥雑な繁華街にして驚嘆すべき客層であるとわたしはおもっている。 わたしは、ヤカタで演っても萱島でやってもそのほかさまざまな場所でも思うのだが、聴いてくれたひとたちがいつもわたしを慰めるように慈眼と拍手をしてくれるさまを直視できない。 それらの重みより自身の日々が軽率だからであり、と同時にみんながなにかこのライブによって物語やドラマといった、演奏中やそののちにでも想い描いてくれただろうかというのが気になる。 無用なことかもしれないが、稀にわたしの歌を褒めてくださるかたがいる。それは言うまでもなくそのときの音楽が覆い尽くしたかがやきのなかの一細片にすぎず、意見を許してくださるなら、その個人だけに限るそのような感想はあまり同調はできない。 ライブは統一的全体の作品、刹那的総合芸術だとおもっている。
by utaushimoyama
| 2013-03-10 09:23
| 音楽のこと
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